仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

ワイドショー独占と非モテと修羅場を携帯でパシャパシャ&ustream(じわじわ加筆していく予定は未定)

ちと先日の秋葉の件などでにらにらと考え中なのですが、全然まとまんないので適当にメモ書き晒しながら加筆していこうかと。
出発点は、携帯でパシャパシャ&ustream中継が「不謹慎」「野次馬根性」批判されてたところで、まあうなずけるところもあるんですがそれで済ませてええのん?ちゅー引っかかりを覚えたというところで。

=いくつかの前提=
・「客観的現実」はミクロだったりマクロだったりな権力闘争の網の目の上で暫定的に設定される
で、秋葉の事件のように、インパクトでかいことが起きると、それ以前の文脈を引きずりつつ様々なエノンセが大量生産されて、それが縒りあわさって言説(ワープア、オタク/ネット批判、歪んだ家庭環境がどーの云々)として配置されていくみたいな。

・「なにがそこで起ったか」を左右するパワーは不均等に配分されている
例1:立場の問題
よくわからん虫が沸いてると言われて調査して、結局集団ヒステリだったんじゃね?と結論づけた科学者vs.うちら虫に刺されてんねん!と主張する工場労働者(エスノ関連の論文のどっかで読んだネタだけど出典忘れた)
例2:コミュニケーションスキルやら立ち位置の問題
声がでかい方、場の流れをコントロールできる方が勝つみたいな。

・「なにがそこで起きたか」を(暫定的に)決定するプロセスに参与し、そこで重要な役割を果たすことは、人々のアテンションを惹きつける
#ウィキペディアには実装されてないですが(たぶん)、項目の編集で重要なリソース書き込んだり、うまい整理をしてわかりやすくしたりすると、他のユーザーがスターつけられるようなシステムみたいなイメージで。ちとここの比喩をどう練り込んで良いのかよくわからんのでにらにらが難航...

・人間は他人にアテンションを向け、アテンションを向けられることで、人として成り立つ
↑の比喩の続きで。被スター数が多ければ多いほど俺ひゃっほい(一般論として)。
俺流迷宮を作り上げたシュヴァルのように、にらにらと内的ほにゃららを練り上げて現実を作り出せるタイプの人もいないわけではないけれど、特異な才能が必要&他人とアテンションやりとりして右から左へ流してるだけよりも妄想コストがひじょーに高い。
んで、アテンションを向けられる人はさらに向けられやすくなるちゅう機制も働いたりするんですが、じゃああんまり向けられない一般庶民はどうやってスターを食うかというと、一番ローコストで一番アクセシブルに見える手段が再々指摘されてることですが恋愛。相手は一人とはいえ、スター連打ですからこれは。ただしそういう魂胆で椅子取りゲームに臨むと、しょっぱな見透かされてキモ判定されがちなので、素人さんにはお勧めできないノー!

・カメラで記録することは、個として体験された現実をシェアする際に超強力なリソースとなる
もにょもにょと解釈がどーたらとかいう話をせんでええですから。強い。さらに、ねとわくで公開となると共同化できる範囲が驚きのひろがりんぐ。

要するに、「現実」が揺れ動きつつ生成されるプロセスと、自他の評価が連動してるちゅうことで。

いまいち関係ないけど、モンスター上司とかって、部下をネガることで「このヒトダメな人」て現実を書き換えていくちゅー側面もあるわけで、育てた方が自分の仕事はラクになるはずだし会社にもよいはずなのに(中長期的には)、なんでネガネガで潰しに淫してしまうかというと、褒めるよりネガる方がスターの値が大きいのかもしれません。褒めるスターは+1、ネガるスターは-2としたら、褒めるよりネガってた方が自分のところを経由するスターの量は絶対値としてみると大きくなる。

とまあ、わけわからんことをぐだぐだと考えている今日このごろ。

=参照=
ウサギは寂しいと死んでしまうが、人間は寂しいと暴れ始める - ls@usada’s Backyard
寂しいので暴れた、説。
2008-06-09,13:05 written by complexequality
ライブログの概念とか。
・初期エスノメソドロジー。特にポルナー「お前の心の迷いです」とスミス「Kは精神病だ」

関連の最近映画。
・「バンテージ・ポイント
冒頭のシガニー様指揮のTV生中継チームとビデオカメラ担いだ素人の鶴瓶風おさんの対比。
生中継がいかにコントロールされて編集されているかって描写に始まって、おさんが素朴に撮った決定的瞬間...のように見えて実は錯認な映像。
さらに、カメラ持ってたばかりに、現場で起きてる事件を記録しなくちゃ!と走り出すおさん。「野次馬」ちゅうのとちょと違う感じなんですよね。なにせそのへんでシークレットサービスががんがん発砲してギャー!なわけで。ほんなところでうろうろしよったら流れ弾当たるがな。公的なほにゃららへのヨクワカラナイ義務感みたいなところで動いている印象。

・「クローバーフィールド
冒頭の自由の女神の首の場面、ラストのなして人は生き様(笑)を届くか届かないかもわからないのにカメラの前で晒すのか。カメラを使い続けるのは、この映画の前提として組み込まれてはいるんだけれど、そんなに違和感がある行為でもなかったりする。

補遺として「不謹慎」ちゅーラベリングについて。ただし、正確に言いたいことを伝えられないとプチ炎上しかねないのでたぶんやらない。人称のあいまいな批判の積み重なりが集合知パノプティコンでうぼあになってるんちゃうかという気も最近しているので、そっちの色を引きずっちゃいそう。