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箱庭の帝王/帝王の箱庭…というか修学院離宮に行って来たのですよ。

京都の修学院離宮行って来たのです。宮内庁に往復はがきで申し込むのがめんどくさかったけど、宮内庁のヒトの解説つきで行って本当に良かったのです。
宮内庁参観案内:施設情報:修学院離宮
宮内庁HP)
修学院離宮 - Wikipedia
Wikipedia
どーいうものかというと、江戸時代初期の後水尾上皇が構想14年(土地選定に始まって、草木まで粘土で模型作って設計したらしい…)を費やして作り、輿に乗って片道3時間かかるちゅうに70数回行幸されたというとこなんですが、とにかく凄かったのですよ。
美術デザインはちんぷんかんぷんだし、有名どころの庭園で行ったところと言えば、金閣寺/銀閣寺/白沙山荘(銀閣寺のそば。明治時代ので小さいけれど超空いてるので好き)/竜安寺足立美術館/岡山後楽園/栗林公園(鯉が面白すぎる)/六義園柳沢吉保作。高低差のある回遊式庭園で池の汀のバカでかい灯籠がすごい面白い)…くらいの感じで、桂離宮とかまだ行ったことない者が言うのもなんですが、なんつーかまったくレベルが違う体験ができました。脳汁だだ漏れでした。

凄すぎてあんま写真撮れてなくて(そもそも既に小1の姪の方が私よりまともな写真撮れるレベルだし…)、はてダ書くにもどうしよう…と思ってたら、解説サイトがいくつかあったのでそっちにリンクさせていただくとして。
修学院離宮の参観旅行 美しい庭園写真(庭造りをされてる方によるぐうの音も出ないほど素晴らしい解説サイト)
Yahoo!¥¸¥ª¥·¥Æ¥£¡¼¥º(時代背景解説&上皇御製の歌を交えたお写真)

ざっくり特徴並べると、
・かなり高低差のある山を使ってる。御所のへんまで京都一望
 逆に視線を北西へもってくと、北山の裏のへんまでみれます。
・門/休憩所/池+色々で3つのエリアに別れており、間はフツーに農地。エリア間はあぜ道で結ばれていた(現在は明治天皇行幸の時に馬車が通れるように拡幅&松並木にしたままになってます)
特に、庭園ちゅうと、借景なんかはするにしても囲った地面のナカでやるもんですから、間がフツーの農地というのはたまげました。もともとそうなってたんですが、その後京都の開発が進むにつれて宮内庁が農地を買い上げて、元の地主さんに格安で貸すかたちで農地として現在も使われています。つーか大根おいちそうだった。
・池の中島は本来は尾根筋。高さ15m、長さ200mの石堤を築いて尾根を池にしちゃってる
尾根筋って、雨に洗われてあんま草木が生えないというか独特の地味が出るんで、それを「竜の背」に見立てて、名前が浴龍池。
で、中島ほどの背をもつ龍なら当然全長数百メートルくらいのはずなんですが、なんと深さはたったの30cm。さざなみを綺麗に立てるために浅くしてあるそうです。名前は「池」ですが、「海」なんですね。鯉も地味な色なのはいるけれど、赤とか金は上皇の考えで入れてないそうです。色が合わないというのもあるのかもしれませんが、海に赤い鯉は泳いでないですもんね…
ガイドの方は、鹿がこの池をぴょーんぴょーんと跳ねながら越えて行ったのを見たことがあるそうな。
石堤っていうかダムって言った方が正確な規模なんですが、その堤に十数種類の灌木なんかを取り混ぜて植えて、全然わからないようになってます。で、伸びすぎるといけないから刈り込む、刈り込むから大刈込という名前になっていて、名前の上でも「実は大土木工事やっちゃいました☆」感は消えているんですね。

で。なにが凄いかといいますと、「視点&体験の制御がありえないくらい巧み」の一言に尽きるです。
・下御茶屋:「山に向かう」アンティームな空間
御所から来てまず休憩するのに使われていた「寿月観」とかですね。ここは門から山に向かって上がって行った突き当たりになります。山に向かうんで、視界が狭いというか手近なものしか見られない。あ、額は上皇親筆だそうですが、かっちょええ字でした。
ここは日本三大棚と言われてる「霞棚」(てか三大棚とかってなんの話だ…)があったりもするんですが、あちゃこちゃデザインしてあるものの基本すっきりさっぱりな寿月観+小さな滝と小さなお庭とアンティームなほっこり空間。普通といえば普通。

・「田園」を抜ける動線
んで寿月観で一休み一休みしたらば、上に行くんですが…それが修学院離宮最大の特徴である「田畑を抜ける畦道」を通っていきます。大根の葉っぱがわさわさしてておいちそう…とか、空広いわねーとか思いながらふにふに進むと。

・上御茶屋:雲の隣から見下ろしビュー
で、上御茶屋の門を抜けるとなんかいきなり急な石段が。
最初は視界狭くてコレどんくらい登るん…?と涙目になりますが、折り返し上がって行くとぱっと視界が開けて浴龍池を見渡す視点に、さらにぱぱぱっと開けて御所まで京都見えるビューまで登ります。この視点の窄まり→ぱかーんと広がりが非常にドラスティックで脳汁沸騰。
てっぺんにある建物は「隣雲亭」と言うんですが、標高で言えばたいしたことないんでしょうが、こういう設計になっているとまさしく雲の高さに感じられますです。
で、隣雲亭の中には御坐所として一段高くなった床があり、そこに外へ板戸を跳ね上げるタイプの窓(名前わかんない…)があったり、肘を乗せて寄りかかるようになってたりするんですが、たぶんそこにデザインされた通りに座ると、御所の南へんまでほぼ京都全体を見渡せるんではないかと思います。(もちろん建物には上がれないんで推定ですが)
んで上皇はここで歌やらなにやら楽しまれたということです。

・浴龍池:バーチャルなヒキー三昧ビュー
んで、浴龍池周辺。そんな尾根筋まで石を積んで作ったとは思えない広々とした池なんですが、現物は残っていないけれど、各種絵巻物なんかにこの池で二階式の屋形船を浮かべて下でお歌、上で管弦なんぞをやってる図が残っているそうです。
で、上皇が下でお歌をされていたとしたら、かなり視点の位置が低いんですよね。大刈込の高さがありますから、京都の街なんて船からは見えない。山側は隣雲亭、山、あとは空。
で、そんなところで背をちょろっと見せてる龍と伴走するように船を浮かべてお歌なんぞする…って、いかにも帝王らしい遊びなんですが…すんげーバーチャルですよね。この池の作りは。

日本史とか中学校で通りいっぺん習ったくらいで、この時代のこととかよーしらんのですが、基本、徳川家が天皇家の権威に色々ちょっかい出してた時代なわけですよね。上皇自身も徳川の意向で即位して、嫁は徳川の娘なわけで(嫁いでからは上皇サイドで動くわ、実家から金むしって京都に流し込むわで懲りたのか、以後徳川家は天皇家に嫁を出してないですが)、紫衣事件があったりなんだりで。天皇が政治的な意味でほんとうの主権者だった時代って日本の歴史の中でそんなたくさんはないんですけれど、ここまで朝廷の中のやり方にごちゃごちゃ脇からやられたことってないわけです。
京都にしたって京都所司代ちゅうものがあるわけで、もはや朝廷だけのものじゃないわけです。修学院離宮は京都から北西の端にあたるわけなんですけれど、ひょっとしたら、御所の中ではなく、町中でもなく、都を高みから遠望する隣雲亭から眺めることで自分が統べているものとしての「京」を実感できるような事情もあったのではないかという気もせんでもないです。

故郷クリンゴン厳島神社が世界遺産なら宇宙遺産だべコリャ…と言わざるをえないほどに考え抜かれて構築されたこの庭で、上皇はほんとのとこ何を考えていたのか、何を思ってこの庭を作ったのか、ひじょーに不思議な気持です。そっちの研究とかじゃどういうことになってるのかしら…