仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

脊髄反射で感動する心性ちゅーのってどのへんからなんじゃろのー。

ケータイ小説に関するほにゃらら。
「モノを売るな、体験を売れ」→「体験したという証明を売れ」 :Heartlogic

「モノを売るな、体験を売れ」というマーケティングの格言がある。「クルマ」を売るのでなく「モノより思い出。家族でマイカーに乗ってドライブに行く。みんな、忘れるな、セレナ」という体験を売る、みたいなアレ。

映画や小説のようなものは、「映画や小説を売る」から「感動を売る」を飛び越して、「泣きました」を売る、というところに来てる、ということか(「強盗」うんぬんは冗談半分の話だが、こういう捉え方は面白いと思っている)。

言及先。
ケータイ小説と国語力。 - みんなの25時
....の、さらに引用先。

148 名前:乱交☆うさぴょん ◆3P5PmUSAGI [] 投稿日:2007/11/24(土) 17:50:09.11 id:LX0x8OX80

ケータイ小説を色々読んだことあるわけじゃないので、基本的に恋空に限った話にしとく。
あれは文学かって論議が各地で見られるけど、ちょっとそういう論議の対象外だと思うんだよね。
まず、全体的にただの状況説明と会話文しかない。要するに表現がないんだよね。表現してない。
んでま、なんか多くの人が感動したっていうんだけど、その感動がわからない人にはわからないから、
話がこんがらがるんだけど、あれは読むと感動するんじゃなくて、感動するために読むもんなんだよね。
いやだから、何が良いたいかってーと、エロ本と同じなんだなと。

(中略)

感動のケータイ小説ってのは、多くの読者の感動のツボをおさえたの引き金の集合体なんじゃないかしらという話。

たしか前世紀の終わり際?ドキュメンタリー・バラエティ(あいのりとか)とかの話をしてた時に、友達が「そいやー今の若いのは、ドラマのストーリーわかってなくても、「感動できる場面」にたまたま出くわしたらその場で感動できるくさいんだよナー」とか口走ってた記憶があるのですが、そやつがどういうソースでそういうことを言っていたのかはナゾ。なんかで読んだ話だったら、宮台とか東へんとかが担当の気はしますが、実際の見聞からそう感じたのかも。

携帯文化にしても、1988年のとれんでぃーどらーま「抱きしめたい」「有線家電をうろうろと持ち歩きながら会話する場面」とかよーわからん描写があったりして(ちなみにショルダーフォンも出てきた)、携帯電話という技術が普及するちょい前に携帯的な表現ていうのがあったりするのが社会のふしぎ!なのですが、ケータイ小説的なるものの先駆体をめっけてそっから考えるのもアリかもしらんな...いや、感動することに段取りと言い訳が激しく必要なめも子には全然わからんので。

=追記=
とかいってたら、丁度「感動」のあり方について論じてるエントリが。
[書評]なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか?(岸本裕紀子): 極東ブログ

書評。書評されモトはこっち。

なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社プラスアルファ新書)

なぜ若者は「半径1m以内」で生活したがるのか? (講談社プラスアルファ新書)

 私はもうちょっと思うことがある。こういう若い人たちは、そういう感動を仲間と頷きあって感動の輪を限定してそこでまったり安全を感じたいのではないか。つまり、それは何かしら外側への無感動な寒い世界に怯えた防衛の反応なのではないか。
 というかそういうものがネットでも機能しはじめているように思う。もうちょっというと、この感動は根の部分に恐怖感やネガティブな情感があり、感動による領域設定と排除の機能を持っている。だから、この感動の疑似集団は感動をコアにしていながら、その外部にむしろ悪意を放出するのではないだろうか。
 筆者はこの感動を「ありがとう現象」に失恋の歌の動向を重ねて見ている。


 勇気で思い出したが、最近流行している歌では、失恋の歌が少ない。失恋ではなく、単なる別れになっている。
 だからかつての歌のように、「付き合って大好きだった相手に捨てられた。悲しい、寂しいし、まだ未練がある。逢いたくてたまらない」などとは間違っても歌わない。自分か相手かどちらが振ったのだかわからないが、別れた相手に対し、「君は勇気をくれたね、大切なことを教えてくれたね」などと歌っている。


 中村中の歌など聴くとそうでもないと思うが、ほいで、吉本隆明も若い人の恋愛が自分をさらけださないなみたいに言っていたが、著者も「彼らの恋愛は、自分をさらけ出さない醒めたものである」と言っている。私はといえば、別に恋愛に自分をさらけ出す必要もないのではないかなと思うあたりで、ネットで爺だの罵倒されるわりに、むしろ若い方の感性にずれている。別に自分の心が若いんだとか言いたいわけではないよ。
 結局、これはなんだろう?と思うのだが、小さな世界で自足する新しい生き方として見るより、現実のべたなリアルと、リアルとされた仮想の世界の軋轢というかその回避の社会構造がある程度到達した結果なのではないか。その意味で、若い人の行動パターンというより制度的なもので、どうにもならない。しいて言えば、たぶんこの感動をありがとう集団は外部には悪意しか放出しないのではないかと思うので、「その感動うざいんですけど」シールドで各様な人を守れるような制度みたいなものも必要かなと思う。

このへんの話って、気がついたら単なる「最近の若い者は」ループになりかねないのが難しいのだけれど、歌詞ちゅうのは年代見れるからよさげではある。
大昔読んだ宮台本で、柳沢みきおの作品を対象に関係の偶有性がどーちゃらとか論じてたとこがあったけれど、そのへんがさきっぽなのかもしれぬ。めいび80年代後半くらい。どの本だったかまるで覚えてないつーか、度重なる引っ越しの果てに宮台本残ってないんで確認しようがないのですが。

=そのころの中国=
「純愛」小説に賛否沸騰 中国、世代間論争に - 荻上式BLOG
で、引用もと。
削除されています
記事は共同配信。07/11/25づけ。

 小説「サンザシの恋」は1970年代の中国農村が舞台。共に都市から来た女子高校生と青年が恋に落ちるが、階級闘争が吹き荒れ人間性が抑圧された状況下で、2人は禁欲的な愛を貫く。青年は白血病を患い、最後まで一線を越えずに約半年後に死んでしまう。
 小説は実話に基づいており、主人公のモデルとなった米国在住の女性の日記を基にネット作家、艾米氏が作品化。9月に本としても出版され、約16万部売れる人気小説になった。
 「涙なしでは読めない、史上最も清潔な愛だ」。ことし初めネット文壇で公表されると、たちまち反響が拡大。

で、中高年は「自己犠牲的な純愛」、若いのは「性が抑圧された特殊な時代の『変態恋愛』」と評価、みたいな。これひょっとして、若いの向けにケータイ小説的なの、中国でもがんがん流行ってたりするのかなー? て、検閲がアレなお国柄ですから、そのへんよーわからんですが。

ただしこれ、ホスト援交レイプ妊娠中絶流産はないけれど、「白血病」「実話に基づく」「ネット発」「全人民が号泣」「人気小説」などなど基本は『恋空』(笑)マーケティング共通なのよねー。
つうても、ネトゲ関連統計見てると、中国は「なんでも日本の10倍ルール」でちょうどいいので、16万部ちゅーのは少なすぎですが。1600万部出て話題のベストセラーだお!...って、出版界は違うのかも。出版に関しては日本の数字が異常な気がする。

とりあえず、人類はもっともっと骨髄移植ドナー登録をして、臍帯血もがんがん集めていくべきだと思います。あとそろそろ『恋人が白血病で亡くなる悲恋物をざっくりまとめてヨノナカの移り変わりを語ってみたお!』が新書で出そうな気がする。つうか、いちいち思い出して比べるのめんどいから誰か出して。

=おまけ=
第7回日本ケータイ小説大賞
大賞作品。3回クリックまでは耐えたものの撃沈。褒めて!