仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

山風は金子的な意味で「絶望」していたのか?

なぜここに山風が出てくるといえばマイ・フェイバリット作家という身も蓋もない事情があるのですが、まあ山風も明治物で執拗に江戸→明治→第二次世界大戦終戦までのいくつか交差するベクトルを描いている作家なんでという言い訳をしつつ。

きわめておおざっぱな印象だけで言えば、「絶望」してはいなかった、んじゃないかなという直観。

風太郎の場合、中学だったかの教練で、身体が弱かったことなどから「列外」だったか、なんかようわからん言葉で免除されていたらしく、まあ要するに「共同体の外」扱いされたことが、原体験として自分の考え方に響いたとエッセイに書いてたりするし、日本近現代史をコンスタラシオンに俯瞰する作品群というのも実際持っていたり、山風権力論にほかならない柳生十兵衛3部作もあったりするんだけれど...『絶望の精神史』のような強烈な呪詛に満ちたものっていうのは書いていないというか書けないというか書く必要がないというかなんというか。山風の場合は戦中戦後の日記が公刊されているのでついついそれに、引きずられるのもあるんですが、子供の時父親死ぬ→母親、叔父と再婚→母親も死ぬ→叔父が再婚→なんつーかいつのまにか家が叔父さんのものになっちゃってない...?みたいな経験が思春期前後にあるけれど、不戦日記の時期、東京の寄宿先のフツーの人とかにフツーにかわいがられて、無意味にルサンチマン貯めずに済んでるっていうのもあるような。

「列外」と「異邦人」の思想の違いってじゃあルサンチマンだけなの?つうたらそれはたぶん違うんだろうけど、まだよくわからない。

なんにせよ、人は社会に内包されて生まれ出てしまうわけで、その本然に抗って、金子(荷風も混ぜていいんかいの)的「異邦人」として生きるには、もう天才北島マヤに追いつこうとする秀才姫宮亜弓さん並みに常時あがいてないとダメなんだろうなぁ。
そのあたりをすっとばして、ガーフィンケルがブチ切れかねない程度の安直さでエスノ的無関心とかっつーてヲチャ的スタンスにアグラかいてしまうと、人としてきわめて淫らかつ醜悪な方向に曲がっていきかねないなと自戒しつつ。謎めもレベルでも言説生産は言説生産、んじゃおめーの立ち位置なんなのヨという問いは常に既にそこにあるわけで。