仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

権力論とかイデオロギー論とかについてはすべて山風から学んだ、みたいな。

日経本紙に発した昭和天皇陛下メモねた。つか、個人的に昭和天皇と呼び捨てすんのはなんとなくイヤなんですが、これじゃなんかなげーよ。というわけで、ナニに「陛下」つけるのが妥当なんだろう。お名前+陛下じゃ自分もよくわからんし、間違えそうでコワイ。先帝陛下じゃなんかヘンだしなぁ。

そのへんのもやもやはとにかく、あまりに時間の無駄なのでそっち系は読んでないのですが、普段巡回しているところやら周囲の人やらにも浸食してきたのでつい世迷い言を書いてみる。つかふつーに教養ある大人だと思ってた人がニュー速を真に受けてたりしてて最近びっくりしたんですが。どうなのよこの一億総ファビョり社会。
いくつかの疑問。

  1. マスコミ、ネット世論ともに「昭和天皇陛下がA級戦犯合祀にダメだししてた」という文脈になってますが、原文一読した時に「A級戦犯が合祀されたから」ではなくて、「コイツが国を誤らせたと自分が考えている人物まで、ソイツの犠牲者でもある戦没者慰霊を司る神社にぶっこむってどーいうことなんだヨ。ぶっちゃけありえねー」と、東京裁判云々よりも当事者であった陛下ご自身の評価として靖国には行けない、という言葉のように読めたんですが。そのへんどーなの?
  2. メモの真贋論争。きっちりした機関の科学的な鑑定入れないと収拾つかん。でも、鑑定したとしても「ねつ造」であって欲しい人、あってくれないと困る人はなにやっても「ねつ造」言うし。これは逆の立場についても同じ。というわけで、自らの立ち位置を省みる評価基準としては使えるけれど、それ以上のことは察しましょうよ*1

一番不思議なのは「A級戦犯」ひとかたまりの話になっていること。今の眼から見ると、「15年/太平洋/大東亜戦争指導部」が時には陛下込みでひとかたまり、として認識されていて、その評価を是か非か二択でやってるように見えますが、今の政局で見ても小泉安倍その他もろもろ竹中小沢福島などなど、もう全然違うスタンスの人間がてんでばらばらにうようよしているわけで、いくら戦争中だからっつーて一丸でやってたわきゃーない。

というわけでまたまた山田風太郎


太平洋戦争開戦時の1日と、終戦前15日のさまざまな人々の記録に残された行動をエディットした本。取り上げられているのは日米軍部ほか最高首脳、日本文豪日記ほか。山風コンスタラシオンぶり躍如。基本的には当時の史料引用なんだけれど、時々「どーしてもこれは言いたい!」という感じで、山風のコメントや注釈が入っている感じ。荷風、人生舐めまくりすぎ。
山風なんで史料検証とかはかなりやって書いた作だとは思いますが(たぶん。自分じゃトレース不能)、あくまで山風の「作品」だということを忘れずにで。パールハーバーはアメリカのトリック説はどーなんだろうなぁ...昔からあれ、なんつーか...事実関係としてそう読めるかもしれないんだけれど、それ強調するスタンスってなんなのよと引っかからんこともない。

で、もういっちょ。

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)

新装版 戦中派不戦日記 (講談社文庫)


上でも引用されている、山風自身の戦争中の日記。医学生として信州に疎開。終戦にかけて、「員数外」スタンスだったはずの山風ですらファビョり気味になっていたり、ファビョったあげくになんか運動すんべ!と思い立ったはいいけれど、脳筋と速攻マウンティング合戦になりかけて萎えるけれど、でもでもとあがいたりと大変。で、戦後、自分がのたうってたその頃の荷風は、陛下は、同じく庶民枠でのたうってた国民のうち記録残っている人は(以下略)と同時代史料読み込むことで、大きな物語としての「太平洋戦争」(ソリッドな「真実」という属性つき)ではなく、それぞれ何万光年も離れてる星が「ナントカ座」として一つの図として認識されてストーリーを帯びるように、「戦争」という図の中でてんでばらばらにうようよしてる諸々となっていたさまを描き出す、という発想に至ったんじゃないかと思います。彼の場合、克明な日記を書いているわけですから、戦後の日米安保枠組視点で自分の戦争体験を「語り」直して大きな物語を生きていたフリをすることはできなかったわけで*2

で、それは小説作品にも生かされていくと。

警視庁草紙〈上〉―山田風太郎明治小説全集〈1〉 (ちくま文庫)

警視庁草紙〈上〉―山田風太郎明治小説全集〈1〉 (ちくま文庫)


山風コンスタラシオン炸裂の明治物。江戸時代〜明治時代に切り替わっていく過程の物語。そのなかには後の日中日露戦争、太平洋戦争へ続いていく補助線も埋め込まれているのですがそれはとにかくラスト、元幕臣も元賊軍も元官軍もそれぞれの文脈背負いつつ国民国家日本になだれこんでいく場面すごすぎ。
イデオロギーちゅうのはあれですよ、単純に目標に向かって人民強制する、煽るちゅうことするんじゃなくて、個々の人々それぞれがその個別状況の中で自発的にアンガジェしちゃうよーによーになにかを配置することなのです。
というわけで、特に政治・社会問題で必死になってる時は、その必死な文脈では見えない裏側で自分自身がごっそり収奪されてる可能性大。...が、必死になってる時に必死になってるってわかってたら必死になってないわけで、そのへんの必死な自分の切れ目をどう見つけていくのか、人生の課題ではございます。

おまけ
山田風太郎wiki - livedoor Wiki(ウィキ)
山風Wiki立ち上げてる人がいた。でもブドアWikiは登録しないとダルいからな〜 @Wikiあたりで希望。
ついでに
山田風太郎
造ってはみたが絶賛放置中。

*1:とはいえ、「相対的な視点」では回収しきれない、自らの真に拠って投企しなきゃならん瞬間も密林の獣のように襲ってくるかもしれない襲って来ないかもしんないのが人生なんですが、ちゅーてもあなたにとってそれって今なの?みたいなアンポンタンポカン感がぽかぽか。

*2:このへん、隆慶一郎が好かんところ。面白いのは面白いんだけれど。ヤツは学徒動員で従軍してたと思うのですが、「大きな物語」への疑義というものをたぶん生涯もちえていない。故に脳筋。故に物語は真か偽かの二項対立を前提とした「本当は家康は(ry」ΩΩΩ<「な、(ry」風陰謀論枠組。「物語」の恣意性というか壊れやすさというか、所詮皮一枚ですよ性にセンシティブではない印象。