仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

稲葉振一郎「ゲームにおける公共性の構造転換」

2006-06-29 - インタラクティヴ読書ノート別館の別館

高校生対象の講演レジュメ...それでハバとか出すのか!とびっくりしつつ、えーと、80年代後半から10年くらいでゲームは娯楽としてポピュラリティを獲得したけどなんか最近輝いてないよ!という変化を論じるという企画で。

コンピュータRPGの場合、他のメディア(本とか映画)との違いっていうとインタラクティブ性て言われるんだけれど、要するにそれは

 実際、普通にいわれる意味でのゲームの「インタラクティブ」性は、制作側が受け手=プレーヤーに対して複数の選択肢を提示していて、プレーヤーはその中から選択できる、という程度のことしか意味しておらず、そんな自由は大したものではないし、プレーヤーから制作側へのフィードバックの回路も、ゲームそれ自体の中には実はない。

ではあったりするんだけれど、そこにバグとかちょろっとした仕様のゆがみを利用した「やりこみ」があったり、開発の想定から外れて縛りを自分で入れる「変則プレイ」の余地があったりして、そこでプレイヤーにとって、「開かれた作品」としてのゲームが成立する隙間があったりしてたので、それがプレイヤー同士のコミュニケーションを促進&特にネットという道具が入ることでコミュニティの醸成を促していったと。

しかしながらメーカー、ゲーム制作者の側でも、こうした「やりこみ」がゲームの快楽の大きな部分を占め、「やりこみ」甲斐あるゲームが売れる、ということは当然了解されている。その結果制作サイドも「やりこみ」要素をゲームに込めようと努力するわけであるが――問題はバランス、さじ加減である。「やりこみ」要素は周到に作り込みすぎると、かえって「やりこみ」を不可能にする――単なる「隠し要素」に堕する、という危険と背中合わせである。制作者の「作り込み」と、ユーザーによるその裏をかく「やりこみ」のいたちごっこがうまく続いていくことこそが理想であるわけだが、どうもそのバランスをとることが、近年ひどく難しくなってきているようである。
 初めから複数回クリアを当然のこととして想定してるゲーム、またあるいは、「隠し要素」データ容量の過半をとるゲームが、近年とみに増えている、とも言われる。ミニゲームや隠しイベントをやたらと詰め込み、「遊ばされている」という感覚をプレーヤーに強いるゲームもまた増えている。ぼくが「ゲームの曲がり角」「ゲームにおける公共性の構造転換」の予感を抱くのは、はこのような現象ゆえである。

「裏技」「やりこみ」があらかじめ仕掛けとして用意されちゃうことによって、要するにファミ通読んでればゲームを「やりこむ」ことが出来ちゃう、で、プレイヤーの創発性が衰弱していく、という話ちゅーことでいいのでしょうか。
ハバの方では、サロン文化やらカフェ文化やらで生まれた文芸的公共性が19世紀末くらいから起きた「娯楽」の産業化やらなにやらで、最初は対等(というか対等という幻想が成立する余地があったとかなんか留保めちゃめちゃかけたくなりますが)だった作り手と受け手の関係性がアンバランスになって頽落していっちゃったのよねーみたいな話になるんで、それとパラレルさせて、表題のようにということぽい。

じゃあこういう状況であるとしてどーすんのよ、というあたりは稲葉先生的には次回!というオチなのですが、このへんのぐったり感をなんとかするには、やっぱMODが世界一な予感が。別にネトゲでなくて、スタンドアロンゲームの枠でも、アイテムとかマップとかぽちぽちドット職人モードで作れて交換できるとか、ランダムで交換しあえるとかそれを評価できるとかとかとか。キャラ使った紙芝居風スピンアウトミニストーリーとか作れても楽しそう。別にいちいちWebからダウンロードとかじゃなくて、ゲーム内から(たとえばゲーム内の「お店」でNPCに在庫を見てもらうとかいう手続きで参照できるみたいな)シームレスに見に行けるとぐー。がんばれ次世代ゲーム機。PS2のPOL接続までのもの凄く洗練されていない手続き設計考えるとあまりPS3には期待できませんが。

そのへん、Wii版ぶつ森がどうなるのかどきどきですが。は、ヤツはHDDないのか...ユーザーデータの記憶容量どんくらいあるんだっけ。