仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

ついでに今まで気になった「死の表現」を脈絡なく列挙してみる

  • 石川淳『至福千年』【物語化を裏切る死、みたいな】
    『至福千年』はちょーたまたま手に取ってなんとなく読んでみたのですが、幕末設定キリシタンとかなんとかかんとかの伝奇エンターテイメント小説&石川ならではの電波ゆんゆん展開でめちゃおもろいです。が、単なる「伝奇エンター(ry)じゃなさ」を自分が感じたのが、物語中盤、「伝奇エ(ry」ならば絶対ここでは死なないはずの人がさっくりといきなり意味もなく死ぬ。そのへんで物語のぶっこわれ方ががつんがつん加速していくのですがなにこれ意味わからん!&面白すぎ、で、この興奮とひっぱずされの快感求めて石川作品いくつか読んでみたんですが、他の作品ははっちゃけが足りない...。管見では山田風太郎作品がいくらか『至福千年』的なものをもってるかなーって感じです。
    「死」を特権化してストーリー盛り上げとか、もうほんとにベタベタな物語って東京ドーム16杯分くらいあると思うのですけれど、そういう「死」にリアリティもてるかといえばそうでもない。おまえら泣かしゃーええ思うとるんだろがと胸ぐら掴んで揺さぶりたいコンテンツなんか、名古屋ドーム12杯分くらいはありますしね。死のセカチュー化いくない。
  • 笠井潔探偵小説作品と評論+『虚無への供物』【第一次世界大戦以後の大量死の経験×推理小説の隆盛、な議論】
    まあ、笠井が参照しているハイデガーやらアレントやら(たぶんあのへんなんだよな?)なにやら読んだ方がはええっつー話もありますが、推理小説というゲーム性が高く、かつ死が問題の収束点になるジャンル論は、コンピューターゲームに関する死の論議にそこはかとなく役に立ちそうな気がしないでもない。だいぶ前に読んだんでうるおぼえですが。要するに「ゲームの死が軽い軽いいうけど、リアルの死の方がなんぼか軽いねん、そうなってしまってる社会でうちら生きてるちゅーこと、死を過剰に物語化&崇高化することで忘れんなやヴォケガ」ということだと自分は思っています。かなりこれ、違うかもですが。
  • 押井守『アヴァロン』×アルフレッド・シュッツ「多元的現実論」【リアリティの準拠点としての死】
    うちの子鹿ちゃんが押井好きというか、川井憲次好きでして、劇場で見たのですが、えーと...いや、音楽とその使い方がすばらしい、あとエフェクトとか映像表現もいい、で、リアル少佐を生身の人間に演じさせようとするのはムリぽとかまあ映画としては色々あるんですが、自分が見た押井作品の中では結構好きな方です。個人的には『イノセント』が非常にもにょってまして、あれはラスト近くのシーンで、少佐萌えで逝っちゃってる某は放置としても、まだ生身で自分の子供もいる某には、もっと強いリアクションが必要だった、そこでサイバーwと肉の対立を描いてほしかったという気が思い出す度に激しくしたりで押井評価はかなり下がっちゃったのですが。もう一つの押井テーマであるところの都市にフォーカスした立喰師列伝はなにげに面白そうだなとかなんとかいきなり蛇足をうねらせつつ、要するに、『アヴァロン』での「死」は、なにが本当の「リアル」なのかを測るものとして出てくるんですが、だいぶ前に見たので、解説しようにも記憶があいまいなことが発覚。覚えていれば近日中に見直すとして...
    シュッツというのはそーいう社会学者がおりまして、「多元的現実論」ちゅーことを言ってたりするのです。第二次世界大戦後くらいだったか。んでどーいう話かっつーと、もともとシュッツの問題関心としては科学論なんですが、日常ぽけらーと生きている自分を振り返ってみると、現実構成の様式が変容してる時、リアリティがちょいズレてる時がある。代表例として挙げているのが「夢」とか「科学的思索」とか挙げてまして、シュッツは挙げてませんがコンピュータ・ゲームとか本読むとかメディア経験なんかも大多数ソレにあてはまると思うんですけど、とりあえずべたーっと同じ「日常」が続いているんじゃなくて、それぞれ自律したルールを持つ現実ちゅうのがちょこまかとあって、んでその中に他者と出会い相互行為をしていく「至高の現実paramount reality」ちゅーのがあり、その場その場で主体が現実として生きているという意味では各「多元的現実」は対等なんだけれど、至高の現実はそれらに卓越してるんだみたいなことを言っていたような前世紀のうろ覚えな記憶なのです。
    じゃあなんで至高の現実は至高なのかっつーたら、シュッツは明示してはいないのでよくわからんのですが、一つはそこで死ねるから。『アヴァロン』は、セピアソフトフォーカス気味の「ゲーム外の現実」と、やっぱりセピアの「ゲーム内の現実」が交互に描かれていくんですが、「ゲーム内の現実」からさらにもう一段入った「裏モード」に突入すると、それはフィルターをまったく通さない、現実のポーランドの都市の描写になってるわけです。おそらく、主人公のアッシュより観客の方が軽くぶたまげるのですが、そこで結局アッシュがなにさせられるかというと、字義通りのネトゲ廃人としてリアルでは病院で介護されている昔の知り合いと「なにがリアルなのか」をめぐっての対話と殺し愛。「ゲーム内現実」ではCMとかで流れていたように、3Dで逃げまどっていた人々(基本的には実写をコンピュータ処理してると思うですが)が、一瞬静止して、2Dの薄い板に描かれたような絵にそのまま変化し、ついでそれが飛散するという描写がされているのですが、「裏モード」で殺された死体はどーなんのか。それが「このモードがリアルなのか非−リアルなのか」の最終的な試金石となるわけですみたいな。
    死んで肉体が腐っていくのはリアルのみ。死して屍拾う者なし。