仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

な、なんだってーじゃなく。その後。

色々エントリ出ていたのでメモ。
404 Not Found
民主党の懇親会をオーガナイズされた泉さんのところ。一番こちらが大波くらったようにも...粘着されキツー。ところでなんでここが一番大波担当になってしまったのか。弱そうに見えるところにグリグリ行くのが衆愚というやつなんですかしら。ご自愛くださいませ…

404 Blog Not Found:オウム憎けりゃことのはまで
αな方のブロガとしての擁護。


隊長。相変わらず。

Annex de BENLI: ネットを利用したプライバシー権侵害の一実例
弁護士の小倉さんのコメ。法的に贖罪済んでるわけだし、と。

mine-D’s English Diary
社会的責任を問う方向のコメ。

BigBang: 「ことのは」の背負ったもの----許さなければならないこと。許してはならないこと。
同上。

「ない」や「関係ない」を言う難しさ - lien
同上。むしろ404 Blog Not Found:オウム憎けりゃことのはまでへのコメントかな。

Nothing found for Diary Matunaga
経緯総括。ただし事実関係よりも、ショックを受けたとか、関わりたくないとかそういうコメント大盛り。松永さんの評価とか言及あったので、あらすごい人なのねと再確認。
でもそんなにショッキングかなぁ...?
たとえば、「『実話』であることが超大前提なタイプの感動系超人気blog(blog主の本人の肖像として鮮麗な美人の写真つき)」で、読者みな感動しまくりつつ、滂沱の涙を流して拝読するようなblogだったらとにかく、常に思考を相対化せよ、メディアリテラシしろとモヒカンに言っていた「ことのは」に対して、「信じていたのに裏切られた」というのは不適当な気がしないでもない。ほんとに読んでたの?と。

しかし、各エントリのトラバやらコメントやら引用やら複雑怪奇でたどりつけてない...

=適当に拝見したところでの自分総括=

※現在のアーレフの動向および、脱会者のみなさんおよびその社会復帰をサポートしようとしている方々の状況については、一般マスコミ報道レベルしかもうろおぼえくらいしか知らないデス。週刊朝日のアーチャリーのインタビュー記事もまだ見てないし。
※やじ馬スタンスですが、両サリン事件および一連の事件をオウムがやってない可能性がある、とか、そこまで相対化するつもりは毛頭ありません(超念のため)。

ぼわっと見ていると、問題化の方向の混在しまくり、しかも、同じレイヤーで逆向いてるとかじゃなくて、レイヤーがかなり違う印象。
で、以下、個々のエントリーへの感想というより、エントリ群拝読していてぼわーっと触発されたことをなにやらぐだぐだ。

  • テクスト中心主義、中の人でblogやる&読むべきだ論(ブロガレイヤ)

※この項は松永さん云々というより、リテラシばな&中の人バナということで。

端的に、404 Blog Not Found:オウム憎けりゃことのはまで。仮にネトワカレイヤーとしましょうか。「作者の死」図式というか。自分はニューアカちょい下くらいの世代なので、そういう方向に傾きがちではあるんですが、中の人とテクストを切り離すというのは論理としては明快だし、そう自分は読んでいくんだと態度表明して小飼さんが実際そうネット生活を送られることは十分可能ですが、実際どう「読む」ということがなされているかというとこ見ていくと、それだけではやっていけない部分もあるんじゃないかとも感じましたです。一般論で言うと、テクストの外にあるもの(サイトデザインなり出版物ならエディトリアル・デザインなり、といったテクストを包むものとか、中の人への予備知識とか)がテクストの内容の「文脈」として読解を左右するというところを見落とすと、却って読むということのあり方を考える上でかなり大きな盲点が出来てしまう。
切り離して読める人はメディア・リテラシーが高くて、切り離して読めない人は低いっていう話にしては駄目だと思うんですね。メディア・リテラシーの問題も絡んでは来るけれど、スタイルの問題じゃないかと。リアル晒さずにぐだぐだblog書いている身で申し訳ないんですが、「どういう人が書いているか」は、テクスト読解の文脈づけをする付帯情報の一つであるわけで。どういう間合いでその情報を使っていくかってところで、リテラシが出てくるとは思いますが。
990万人いる某所みたいな書き流し&情報の信頼性を書き手が担保できないタイプのCMCが、アーカイブにすぐアクセス出来るblogの登場で、ちまちまエントリやらトラバしたりされたりを継続していくということで、匿名とも実名とも違う角度から、書き手の信頼性を読み手が汲み取ることができるようになった…のがblogのメディアとしての最大のインパクトだと考えていましたが、それにしてもリアル・アイデンティティというタグは重みが全然違うなと。

  • 反社会的集団であるオウム真理教に所属していた、という「罪」(市民レイヤ)

これはネット云々というよりも、市民としての立ち位置を問うとか、もちょい広い範囲の問題系。社会的責任を問う方向のエントリはだいたいこっちに。ネトワカ云々話というよりは社会の問題として、市民としてオウムであった自分をどう総括するのかという突きつけとか。とはいえ、んなもん突きつけられる方の困難さ(端的に既に信じていない、関わってない、としても、それをどう証明するのか)というものもあるぽいんですけど、そのへんどうなんだかなと。
「松永さんは(元)オウムだから関わりたくない」というのは、まあごく素直な感想かもしれないですけれど、実名晒したりしてっと「仕事も出したくないし、貸している家も出てってほしいし」になっちゃうのが今の日本なわけで、それは泉さんのところの大惨事を見ても、本人だけじゃなく周囲にまでたいへんな影響を与えてしまう。じゃあどうやって生きていくかっつーと、カルト信者として入国拒否とか喰らわないレベルの経歴しかない人ならば海外移住…か、もし国内にとどまるなら、資産家の親元とかに都合よく帰れるのでなければ脱会者同士とかで肩寄せ合ってどうにかしのいでいくしかないわけで、それはそれで、オウムから抜け切っていない判定くらうしかなくなるわけで。
非ー信者の側からみれば、「元信者」が拘禁性のなにかでどーにかなっちゃってるかもしれないアノ人をまだ信じているのかもしれないし、まだ世界制服とか夢見ているのかもしれないし、という不安不信がどうしても抜けがたくあるわけなんですが、「元信者」の側からは、どうやったらもう「元」であり「現」ではないと証明できるのか、どうやったら非ー信者側の不安不信を解けるのかという非常に困難つーか、かなり無理だろっていう課題があるわけです。現役アーレフ信者については…ぶっちゃけ理解不能、言及不能なのでヌルーさせていただきますが。
自分としては、一連の事件の倫理的な責任を計画立案・実行に関わっていない元オウム信者にもし突きつけするのであれば、このへんのもやもやをどう引き受けていくかという思考が突きつけする側にないとアンフェアかなとも思いました。勝利条件のないゲームを一方的にやらせるようなもんですから。確かにオウムの一連の事件で命を落とされた方はいっぱいいらっしゃるわけですし、さらに今もなお後遺症で苦しんでらっしゃる方もたくさんいらっしゃるわけなんですが、直接被害を被られた方ご遺族の方当事者の方当事者と近しい方は別枠として、「社会」の名において突きつけを行うちゅーことは、じゃあうちらの「社会」はどう「元」信者ともやもやしていくのか、引き受けなきゃあかんちゃうのとかなんとか。

てことで、野田さん単独+若干引きずられているエントリもないではないかな?くらいですが。
上のは、どっちかというと「過去」が問題とされているんですがが、ネタ元の野田さんはガチで現在進行中の謀略バナとして告発されてるんで、ちょとレイヤーが違うかなと。これは……公安のアーレフ担当によろしくとしか。
んなこと言われたって、現在の公安が過去&現在の松永さんをどう評価しているのかフツーの人間にはよくわかんないわけですし。今でも尾行とかついてるレベルだったら、ブロガー懇親会どころじゃないんじゃないかと思うし……でも「予算ないし、もうほんとの幹部と麻原の家族以外はまんどくせ」でスルーされているのかもしれないし。
というか、この陰謀論はちょっとなぁ……少なくとも「ことのは」はアーレフ関連であるとか精神世界バナとかなんかそっち系の話って自分が拝見している範囲ではまったくやってないわけで。これがなんつーか、折々の話題に織り交ぜて物質的世界からの解放が云々とかいう方向の話してたら違いますけれど……ていうか、「ことのは」でそういう話出て来たら、スルーしちゃうか場合によってはドン引きするだけなわけで。
「アメリカでブロガが政治に食込んでる(誇大な虚報気味かもですが、一時は確かにそういうレポあったような)のを見て、ブロガとして実績を積んでブレーンとして食込むつもりでblog頑張った」とかってストーリーにするにしてもなぁ…………なんでしょうか。この萎え萎えクポ感は。もう少しプレゼンテーションというものを考えてほしいよー。肩書き「元公安」なんだから、ほんとだったら物凄いソースなのになぁ。もうちょっとこう、淡々と事実関係を報告とか、積めば積むほど逆に根拠がないんじゃないかと裏読みされるような枝葉は落とすとか。
万々が一、将来「実はほんとのほんとに松永さんがチームきっこでみんす党でアーレフの謀略(ry」という事実関係がガチで証明されたとしても、少なくともこの時点で信用しなかった自分を未来の自分は褒めてくれると思います。
だってーーー。オウムの世界征服野望とおんなじくらいなんつーか……アレなんですもの。アレ。オウムは「うは…なにそれありえね」なことを真顔で粛々とやらかしてくれた集団なんで、オウムの動向を分析しようとしているとアレにならざるをえない部分もあるのかもしれないけれど、でもアレだしー!

……なんか、追いかけているうちに、追っている者と同じ(?)になってしまうってメタ・ミステリみたいなのなかったでしたっけ。チェスタトンの『木曜の男』じゃなくて〜(あれは最初から同じ、なわけだから)…ピランデルロとかあのへんだったかなー(うろ覚え)

=以下、蛇足ですが自分の反省点。=

  • いかに語り口が陰謀論くさくて、ソースぐらぐらのように見える情報であっても、マジネタというものはこの世にある。ので、裏読もうとして逆に引っ掛からないようにしませう。

………でも、もっともらしい情報をつついて、「これソースあやしいやんウソクセ(ぽい)」をやるのは難しくはないけれど、もっともらしく見えない情報からほんとのとこを拾うのって、それスーパー超絶ウルトラディバインメディア・リテラシーが要りそうだよな……なんつーか、こう、『哭きの竜』級のなにかが。三白眼でじーっと対面眺める気持ちで。

=ほんとに蛇足。=

「=河上」とバレるともう大変なことになるっていうのはわかりきっていたことだとは思いますが、できたら第一報が出た時に、流そうとしないで欲しかったなぁ、とは。野田さんのスタイルからいって、どうせ顔わかるところで突き合わせするに決まってたわけですし。ていうか、突き合わせしてから出しとけば、という気も逆にしないでもないですが。
あと、リアルで双方に会ったことがあるけれど、別人だっつーて野田さんちの方にトラバしてたところはなんだったんでしょう。