仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

『友だち地獄』

気になってた新書を根こそぎ退治すんよ!週間ということで。

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)


・対立の回避を最優先にする若者の人間関係=「優しい関係」(p.8)ということで、色んな現象から色々論じちゃうヨー!という方向。
「優しい関係」の例:『野ブタ。をプロデュース
野ブタ。をプロデュース DVD-BOX

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先行文献:大平健『やさしさの精神病理』
やさしさの精神病理 (岩波新書)

やさしさの精神病理 (岩波新書)


「教室は たとえて言えば 地雷原」※中学生が作った川柳…(p.9)

1章:いじめを生み出す「優しい関係」
・昔の不良文化と現在の非行の違い
 非行サブカルチャーの解体/「支配する敵」としての社会(学校空間の中だと校則だったり教師だったり)が見失われる
※そのへんは同著者の『非行少年の解体』へん?
→内側へ向かって、不安定な優しい関係を維持しつづけるプレッシャーを引き受ける方向に。
・なんでこういう事態に至ったのか
「個性化教育の意図せざる結果」(p.38-41)
 1980年代〜の「主体的に生きる力」教育/いじめ激増とパラレル
 具体的な知識/技能の伝達やその前提となる学習態度の育成よりも「生きる力」「考える力」「個性の重視」
 画一的な知識詰め込み型教育と以前の教育を位置づけて、「自ら主体的に学び考えさせる教育」へ
→教育目標の抽象化/工業化社会の次を睨んで創造的な感性ガーみたいな。工場で単純労働やってちゃ中国に勝ち目ないんで1億総クリエイティブなホワイトカラーや!みたいな(※そこまでこの本では言ってません)
 子どもに「自分探しとそれに基づいた表現」を期待するように。
→学校空間の私的空間化/教師ー生徒というタテの社会的役割が剥がれて行く→関係の不安定化
 「優しい」配慮のために表出されない違和感や怒りが蓄積→生理的な感覚を表現する「むかつく」。出口なし。
#なぜそんなにも対立が回避されなきゃいけないのか、ここまでだとちょっとパチクリ…なんか読み落としてるくさいので後でもっかい読む…と思ったら、後々事例を重ねて行くことでわかってね♪タイプの本なのか。
#学校という場で社会的役割として「生徒」やってる自分がちょと叱られても、それは自分の一部だったのが、常に既に俺全面!でやっちゃうわけだから、ちょと叱られると俺全否定されたYO!ということになっちゃった、という方向なのかしら…

2章:リストカット少女の「痛み」の系譜
高野悦子「自律したい」
 親と子の世代間闘争の中で、自己を主張していく。
 自傷は身体感覚の先にあるはずの「自己」/主体性の希求。
南条あや「承認されたい」
 社会的葛藤がない時代。自己の確認は内側、身体感覚(薬の乱用)へ。
 Web日記=読むのは他者だが、リアルな具体的な他者ではない。自分のうちに取り込まれた他者のまなざしと同等であり、自己の延長線上にある他者。(p.69)
 自傷する身体が自己そのもの。主体性へのあこがれがない。

3章:ひきこもりとケータイ小説のあいだ
・自己肯定感の脆弱さ→シビアな「優しい関係」の維持で他者による肯定をもらう…けど、ちょっとしたことで大ダメージ。しかも修復不能ととられてしまう。
 例:ひきこもりの直接の原因と結果に大きなギャップ←斎藤環『社会的ひきこもり』
 復帰が困難なことが最大の問題。

・ケータイ小説
 反社会的な少年非行:校舎の窓ガラス壊して回った〜♪
 非社会的な少年非行:シンナーとかででろーん…
 脱社会的な少年非行:金貰えるんだからいいじゃない。方向の援助交際など
→ケータイ小説の世界は脱社会的。最初っから二人のセカイ(なので、関係の純度を高めるには、「社会」が使えないので「死」が要請される)

・「善いこと」から「いい感じ」
 R・ベラー『心の習慣』
 外在的な社会の規範を参照した善悪ではなく、身体感覚で判断する→葛藤が生まれない。
 「上から目線」→善悪の基準を外から押し付けられることへの強い反発。

・「純粋な自分」というパラドックス
 クッションとなりえる外部の基準ではなく内発的な基準に従って動いていると、些細なズレが互いの全否定になりかねない…けど、他者からの絶え間ない肯定がないと、自分を支え続けられない。

・「分かりあえない感」
 内発的な基準を前提するなら、理解とかふつーに不可能だし…というわけで、わかりあえないことを前提にしつつ、肯定しあいこゲームをマネジメントする羽目に。ノーフューチャーすぎるだろうjk...

 「族」て言われるほどのまとまりがなくなって、「系」。
#そいや休日に原宿行くとゴスっこがなんとなーくわらわらしてたりしたけど、昔だったら「ゴスロリ族」とかいう呼ばれ方してたんだろうなあ…

 そんなこんなで承認欲求がんがん上がって、えらいことに…
 例:「アダルトチルドレン」大流行
#「おわりに」で、三浦展が、団塊世代だと経済階層が上な人ほど「自分らしさ」志向が強いのに対してジュニアは低い人ほど強いという話を下流社会でしてたヨーと。「自分らしさ」が団塊では社会的な俺ひゃっほい、ジュニアでは内面めりこみ脱社会なのかもと。

4章:ケータイによる自己ナビゲーション
#比較的、調査結果に基づいた話が多め。各種研究へのレファランス多いので、そのへんざっくりサーベイしたい時によいかも。
即レス文化とか不安とか「つながり」そのものへの欲求は強いけど相手はフリップフリップとか。

5章:ネット自殺のねじれたリアリティ
 「純粋な自分」へのあこがれ→潜在的な可能性を秘めた自分は特別なのでもっと評価されるべき!→しかし優しい関係マネジメント地獄→これって結局ウソでねえの?感発生→自分ていらない子なんでねえべか…みたいな。(p208-209)
 具体的な他者と純粋な関係を編んで行くのではなく、純粋な関係への期待が先行して、自殺したいという一点でつながった集団自殺用グループが編成される。自殺希望者同士は手続きの話のみをして、互いの理由の話は避ける…云々。
#このへん、「宅配毒物自殺事件」と「ネット集団自殺」群発のズレが読めそうな読めなさそうな。宅配毒物の方は、ねとわく上に寄り集まった希死念慮者のセルフヘルプグループみたいなところでの一種の「事故」(舞台となったサイト管理者によれば)であって、場の焦点は南条的な「かくも生きづらい私」語りの共有だったと思うんですが、宅配毒物の場合は「死んでもいい理由」をアッピル、集団自殺の場合は理由語りを回避したほにゃらら…なわけで。同じ「なんだかよくわかんないけどとにかく崇高な自己」モデルから押し出されたとしたら、どういうところでこういう差が出て来るんだロー。

インターネット自殺毒本

インターネット自殺毒本


 そんなこんなで色々面白かったです。終わり。
 個性教育では「役割」が子供の個性を殺してしまうのでいくない!になっちゃった模様ですが、ゴフマンの「役割距離」周りでも読んでおけばよかったんじゃないかな…当時の臨教審。

=おまけで思ったこと=
・80年代というと、後半へんからニューアカ隆盛とかありまして、近代的自己とかそっから逃げるべきものとしてアジられてたよーな気もすんですが、あれって結局このへんとどう結びついてるんだろう…
 いやまあ、一部では盛り上がってたとはいえ、所詮世間様の片隅でひっそりやってたわけだから、華麗にスルーされてたんかもしれんけど。一部とはいえニューアカをブームとして受け入れた時代と、どー考えても地獄落ち確定な抽象的自己への投企を促した時代がおんなじつうのがわけわからん。

・あらかじめ成就できないのに馬車馬鼻先人参になってる「純粋な関係」欲求とか、エヴァとか天童へん使うと哀しいほどわかりやすい話じゃあると思うのだけど、あのへんは使わないのはスタイルなのかなー。食傷気味ではあるんでどうでもいいですが。

・豊かだから価値がデフレしてリアリティが希薄(p.184〜)みたいな話は稀によくあるのだけど、見る度に毎回違和感が。そんなにみんな豊かなのかしら私の年収が低すぎるのかしら。
 「欲望を喚起するものはガンガン出て来るのだけど、それがうっかり見通しよくデタベス化されちゃってるばっかりに、いくらやっても成就しえないことがバレバレなんで萎え萎えくぽ」みたいな説明じゃダメなのかな〜…って、こういう発想パターンて下流論でやられてそうな気もしてきた。