仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

『ケータイ小説的。』を読んだのー!

その後SLいってひゃっほいして、ねんねするお…とお布団はいったんだけれど、にらにら考え始めてようねられんので、いくつか思いつきだけ雪崩メモ。あ、端的に言って面白かったデス。特に浜崎あゆみまわり。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち


・ケータイ小説の共通言語である浜崎あゆみ的なるもの(笑)の系譜は、(藤圭子)→山口百恵中森明菜→(工藤静香)→…というプロテストするアウトサイダーな歌姫(特にプレイバックパート2/少女A)のセリーから来てて、んで工藤へんでレディース要素が入ってきたと。
けど、工藤〜浜崎の間でなにか決定的な断絶があるわけで、そのへんどっから来たのか。浜崎あゆみ的などこまでも内側に折りたたまれていく内面てどっから沸いたのかがなんつーかこう、もちょっとなんかありげー!
アダルトチルドレンがその頃はやりだしたのははやりだしたんだと思うけど(ズレあるかも)、あれは結果であって原因ではないような気がする。共依存とかいってたのって、本家でいつ頃からだっけ……たしかなんかラグがあったような。あ、アダルトチルドレンが1970年代アメリカでソーシャルワーカーの経験からもにょもにょと積み上がってきた概念ぽい(ウィキペディア情報)。ラグが20年近くあるわけだ。新しい理論が湧いてから輸入されるまで数年以上ラグがあるもんではあるんですけど、ちと幅多めというか。学の問題ちゅうより社会の状況の問題という気もするるり。

ついでに言うと、1980年代は「思春期やせ症」(=「女の身体」になることを恐れる女の子の病気...というわけでジェンダー&セクシャリティ絡み)だったのが、90年代には「摂食障害」(家族関係とかー、自己評価とかー、依存とかー)になっちゃって、全年齢化されたとかあのへんやっぱりなんか色々あるきもち。

感情マネジメントの精緻化と自分語り(と、私さがし)の大爆発てのが90年代前半?もうちょい前?からずーっと来てるのは来てるんで、まあそれですよねというのがとりあえず妥当な線なんだけど、なんでこんな大爆発が起きちゃったのか、やさしさが病理になっちゃったのかつうと、時間を共有するデバイスが発達しまくって、「共に時を過ごすという奇跡」のありようが、どうしようもなく変容しちゃったっつー説明もできるんだけれど〜……ぬにゅー。
平行して起こったのは……オタク文化はそのへんでどう動いてるんだっけ。なかばでエヴァだっけ。あれ、作品は明快すぎるくらい明快なんだけど、受容状況がよぐわがんなぐでよぐわがんないのよねー。

・初期椎名林檎との共通性(3作目からまともに聴いてない…)
「正しい街」/上京した女と地元にとどまる男(無罪モラトリアム
「本能」+「罪と罰」/「現在」への固着(勝訴ストリップ
→浜崎の話法がきわめて抽象化された過去を振り返る点に特徴があるなら、林檎/浜崎ともに「未来」という時制の拒否とくくれるかも。Coccoはわかりません。

てきとーに思い出したところでミニー・リパートンとかの王道ラブソング(Loving you, Can you feel what I'm saying)だと「これからずっと一緒だよねー」的な歌詞が直球で入ってて、特に後者は一目あってその日からベッドにゴー!的な設定くさい部分もあるので、そこでそれ言っていいんですか先生!と、目のやり場に困るという心性は共有してるんですが……って、ていうか、そこまで大昔に遡らなくても、ドリカムでいいやドリカム。未来予想図。
それに対して浜崎/林檎組はなんでこんなに「未来」が言い落とされているのかちょと想像を絶するものがあるきもち。浜崎の先駆形態でもある尾崎豊はどうだったっけ……そんな過去過去現在現在しかった記憶はないのだけれど。
ファスト風土な風景に未来はあるのかといえば、たぶんノーフューチャーですすみませんとしか言いようがないけれど。でも初期林檎はファスト風土じゃなくて明確に「東京」であり、お茶の水とか環6とか23区内前提の地名がぼろぼろ刻まれてるわけだし。なんか中野へんぽい印象受けた気がするけど、なんの曲だったっけ。
てーか、何年ぶりかに林檎聴き直したけれど、こん時せいぜい20歳くらいだっけ。こんな若くてここまでやっちゃって、後の人生どうすんだっつーて初めて聴いたときに思ったけれど、恐ろしすぎる。

=08/07/14追記=
404 Blog Not Found:「大きなお世話」 - 書評 - ケータイ小説的。
ケータイ小説はカウンターカルチャーではなくオルタナティブカルチャーなんで軽くスルーするのが節度かのーという話。
ケータイ小説読者は、ケータイ小説がどう語られているのかわりと無関心なのかな感はあるので(「スイーツ(笑)」扱いへの反論とかほんと見たことないし...どこが面白いのかケータイ小説へのdisりを踏まえた上で記述したのって見たことねえ。全員携帯の中に立てこもってるわけでもないだろうし、誰かブログとかで反論エントリ上げてそうじゃあるのだけれど。そーいう感覚はないのかなぁ)、ケータイ小説読者のためにはほっとくが吉ちゅうのは一定そうなんですが、読まずにor読めずに「スイーツ(笑)」とか「リテラシの貧困」とか「文学オワタ」とか言説まき散らし部族やら、なにがなんだかよくわかんなくてお口ぽかんなワタシ、要するにヤンキー文化読解プラグインが入ってない人々にとって、ヤンキー文化はもっと光を当ててもらう意味は大盛りなんじゃないかと。『ケータイ小説的。』は「みるみるわかる郊外文化@ゼロ年代編」であり、ヤンキー文化を抑えないとそのへんわからんがなということがよくわかる本でもあるわけで。あと、ねとわく文化もケータイ小説経由してきた世代が今後どんどこ増えてくわけで、そのへんで変容とか起きるとしたら、「ぼんやりとした共感」の本質こそ問われなければならない日が来るべ来るべ。
というわけで、そっちの教養がないわ自分で調べるには適切なプラグインが入ってないわなめも子のためにも、犬がかぶる人はヤンキー文化にもっと光を当てまくって!

=08/08/04追記=
『恋空』とあゆの関係。(『ケータイ小説的。』の感想)[絵文録ことのは]2008/08/02
携帯画面で携帯小説読みまくってる松永さんの読解。
1頁が異常に短く、改行多いことから画面が表示された瞬間次に送ってもいいほどの軽いリズムでいけるのが魅惑的とかなんとか。
あと、実話/フィクションの線引きには携帯小説コミュニティ内でもなんというか取り扱い注意扱いしてる挙動が見られるとか(=のっぺりと「現実」と信じられているわけでもない?)、「過去の話」になっているのは、批判封じこめの意味合いもあるんじゃないかとか。
....そのうち松永さん携帯小説パスティーシュとか来ないかしら来ないかしら。