仕事用のめもとか。

メディア等気になることを適当に。

吉田純。ネット共同体への疑義。

» 顔のない街の中で
裏『インターネットの社会学』というか。具体例あるとわかりやすい。
つーか今ごろ気づく自分てどうなのよ…

情報ネットワーク社会をめぐるジャーナリスティックな言説やCMC(Computer Mediated Communication)研究の言説においては、これまでコミュニティ概念はもっぱらポジティブな規範的意味を与えられてきたといえる。ジャーナリスティックな議論は、しばしば「インターネットは新たなかたちの素晴らしいコミュニティを創りだすのか、それともコミュニティ全体を破壊するのか」という図式をとってきた(Wellman and Gulia 1999: 167)。またCMC研究は、初期(一九八〇年代)のそれが「社会的手がかりの欠如」からくる「非人格的なコミュニケーション」を強調したのに対し、一九九〇年代に入ると、「使用者の創造性」が「新たなコミュニティ」の形成を可能にするというポジティブな評価への転換がなされた(土橋 一九九九: 一一四?六)。いずれにせよ、こうした議論に共通する自明の前提として、「コミュニティ」自体の内実はほとんど問われることなくポジティブに位置づけられてきたといえる。

 しかしながら最近になって、とくに社会学者のあいだから、ヴァーチャル・コミュニティのネガティブな含意を指摘ないし強調する言説が語られるようになったことは興味深い。たとえば大澤真幸は、インターネットが支える「遠隔地ナショナリズム」に典型的にみられるように、電子メディアは「分散的で排他的な共同性」へと社会を導き、「自分自身が単なるローカルなネットワークのなかの一員であるという感覚しか持てなくなってくる」状況をもたらすと述べる(大澤 一九九九: 五四、八六)。

(ネット)コミュニティを生成する/(リアルコミュニティ)を破壊て軸だけじゃなくて、もーちょいそこらでえーかげんに生成されまくってるコミュニティ自体をちゃんと見てかなきゃあかんちゃうの、ということでいいのかしら。大澤のコレ読んでない…安川のも読んでない……ヤバス。